2008年4月17日 1:57:52
今回は、子供に「自覚的に考えさせる」ということをテーマに、書いていきますね。
娘とファミレス(ファミリーレストラン)に行ったときの話です。
私自身は、外食に行き過ぎることを否定的に考える方なので、この話をしたからって、外食を肯定しているようには、思われないでくださいね。もっとも外食に否定的と言っても、その危険性を理解していれば、まったく問題ないと思ってはいる方で、以前、多少記してきたかと思うのですが、いずれ、また、外食や旅行の危険性については記させていただきますね。
今回は、「自覚的に考えさせる」にあくまで焦点を当てて記していきます。
私の娘が小さかったときの話です。あるファミレスで、娘が、よくあるソファー状の長いすの上で、突然立ち上がったのです。幼い子供でしたら、よくある光景でしょう。2歳か3歳のころだったと思います。で、私は、どうしたかというと、まったく叱りませんでした。多くの方がこういう場合、すぐに叱る場面はよく見かけるところですが、私は、それはよくない行為だと思っています。
当然叱らなければならないでしょうって?行儀の悪いことをしているのですから、そう見えるかもしれませんね。でも、問題は、子供がそれを悪いことと思って行動しているかにあります。悪いことと思っていない子にいきなり叱っても、子供に「あなたはだめな子だ」というメッセージを送ってしまうに過ぎない行為になってしまいかねません。知らない子には、知らせてあげればいいのだと思います。考えない子には、考えるようにもっていってあげればいいのだと思います。
じゃあ、どうすればいいかですって?
やはり、悪いことだと思っていないのですから、悪いことだと知ってもらう、できることなら、自分で考えて、つまり、自覚的に考えて、行動の善悪を判断してもらうということが大事かと思っています。
私は、そのとき、とっさにこう切り出しました。
「かなちゃん。かなちゃんは、今、周りのみんなからどう見られているかわかるかな。周りの人たち、みなかなちゃんのように立っていないでしょ。パパもママもイスの上で立っていないよね」
娘は、ゆっくりと周りを見回しました。確かにパパ(私)のいうとおりだと思ったのでしょうね。で、突然、ひざを曲げ、ちぢこまりました。で、
「これでいい?」
と聞いてきました。
皆さんでしたら、「それじゃだめ。ちゃんと座りなさい」といわれますか?私は、そう言うよりも、もう少し子供に考える余地を与えた方がいいと思うんですね。まあまあいい線いっていたら、ほうっておいてあげるという感じです。
私は、
「う〜ん。それくらいだったら、大丈夫かな」
と言いました。そうしてほうっておきました。これだけの会話を、ゆっくり本人のわかるペースで、わかる言葉でしただけです。
面白いことに、娘は、それ以降は、ひざを曲げてちぢこまるというポーズさえもしなくなり、行儀よく座って食事をするようになりました。そして、さらに、別のあるときには、ファミレスで、走り回っている子を見て、
「あれはだめ」
と、胸元で両腕を大きくクロスするようなしぐさをして見せました。私は、このとき、この子は、私の話から、「1を聞いて10を知る」に近いことをしてくれたのだと思いました。これが自覚的に考えるということです。ひとつのことを聞いて、自分で考えて、ほかの事にも応用をきかせていく。人間のあり方として、これはとても大事だと思います。
私の教えていた子で、小学生のとき、輪ゴムを机の本棚部分に向けて、飛ばしている子がいました。そして、落ちた輪ゴムをまた拾って、また飛ばして、、。私が勉強について説明している最中にです。で、この実態をお母さんあての「連絡ノート」に記しました。そうしたら、それは止みました。次のとき、でも、今度は机の上の消しゴムを人差し指で、やはり机の上の棚に向けて飛ばし始めました。やはり、私の授業中です。で、また、連絡ノートに記したら、止みました。で、その次は、イスをくるくる回転させるということをし始めました。こんなことを繰り返していた子です。この子は「1を聞いて、0.5も学ばなかった」といえるでしょう。「怖い」お母さんに怒られたから、ゴム飛ばしの行動をやめただけで、別の類似した行動もしてはならないということを、自分で考えていくということができなくなってしまっているといえるでしょう。その差は、いずれ、いろいろなところで、とても大きな差になって現れるのではないかと思います。
実際、彼は、自分で考えて、いわば自覚的に勉強することのできない子のまま、大きくなっていったという感じでした。
私自身は、子供の学力と自分の行動をコントロールする能力は密接な関係があると考えている方です。少なくとも、自分の行動をコントロールする能力は、生きていくうえでとても大事な能力といえるかと思います。
親や周りの人間は、子供に自分で自覚的に考える機会を与えてあげるように、言葉や態度に工夫を凝らすべきでしょう。これは、過保護による弊害を防ぐ最善の方法だと思われます。「輪ゴム飛ばしの子」は、親から何もかも厳しく妥協の余地なく伝えられて、自分で思考して行動する余地を与えられなかったのでしょう。
ポイントをつかない厳しさも、過保護と同様の悪影響があるといえるでしょう。
自覚的に考えるというのは、子供にとっても心地のいいものです。
娘は、もしかしたら、私から、上のような話をされたことさえ忘れていることでしょう。で、私は、それでいいと思っています。娘は自分で考えて行動したと思っていると思いますし、まさか、その自覚的行動が、私によってもたらされた部分もあるなどとは、つゆと思っていないことでしょう。私は、それが一番理想的なあり方だと思っています。子供が、親に言われたから行動するというのでしたら、それは、レベルが低い行動であろうかと思います。
パパなんか、いてもいなくても、自分の行動には関係ないと思って行動してくれる感じのとき、一番子供は自覚的に行動できるようになると思います。自分で自覚的にとった行動は、一番本人の体質として染み付きやすいものです。そして、そういうふうにして染み付いた体質が長い目で見て、子供の学力、勉強姿勢、生き様などに、大きな影響を与えるのではないかと思います。
悪い体質(怠け癖、集中力が続かないなど)が一度定着してしまうと、対処する時期が遅くなればなるほど、体質改善が難しいといえるでしょう。もしそうなっていたら、一刻も早く改善に乗り出すべきでしょう。もっとも、早く改善に乗り出しても、すぐに子供が変わるということはないと思ってくださいね。変わったりする子もいますが、それを期待せず、じっくり取り組むくらいでちょうどいいかと思っています。
ここでのキーポイントは、できるだけ「早い時期から」「じっくり」です。そして、もうひとつあげるとしたら、子供を変えようとする前に自分たちが変わろうつするくらいな気持ちで臨むことです。自分たちが変わらずに、子供に変わってもらおうという虫のいいことを考えると、いい結果はえられなかったりします。こうすべきだとわかっていながら、私たち自身の行動もなかなか変わらなかったりします。で、そういう自分たちの、つまり、人間全般の弱さみたいなものも自覚しながら、子供とのかかわりを真剣に考えて、行動に移していくときに、私たちといっしょに子供も成長していく感じかと思います。
周りの人間の成長とともに、子供も成長していくという視点は大事です。子供さんとのかかわりについて、思考を深めましょう。それがひいては皆さんの行動のよい変化を促し、さらには、子供さんのよい変化につながるのだと思います。
2008年5月2日 11:36:17
閑話休題。先日、志望校に合格したお宅で、今は教えていないあるお宅から、頂き物をしました。きわめて遠方のお宅なので、当然宅配で送られてきました。で、お礼をと思って、メールを差し上げました。いつも送っているパソコンのあて先に送ったのですが、返事がありません。仕方ないので、本人(教えていた子)の携帯あて、メールを送ったのですが、返答がありません。こちらは、いつも明るく感じのよい、しかもきちんとした子だったので、絶対返答があると踏んでいたので、おかしいなと思っていたのですが、あるとき、ふと考え直しました。
「これは、わざとメールに返答してこられないのでは」
と、、。つまり、こういうときは、返事をしないのが礼儀とか、そういうことがあるのかなと思ったりもしたんです。きっとそうなのでしょうね。勝手に、そう思っています。私は、頂き物をしたからといって、そのお宅に、格別目をかけるということはなく、どのお宅でも、私にできるできるだけのことはして差し上げたいと思っている方なのですが、頂き物をして、うれしいという気持ちは、世間の人並みにあります。だから、お礼を差し上げたのですが、きっと、返事がないのはそういうことなのでしょうね。礼儀、何かへの配慮。そんなところでしょうか?
で、思い出したのですが、私がサラリーマンをやめたときのことです。私は、こう申しましても、一時期サラリーマンをしていまして、いわば、エリートコースみたいなところにいたことはいたんですね。会社に長くおられたある方から、入社1年もしないうちに、「田口さんは、常務にはなれるな」といわれました。1部上場の大企業の仲間には入れてもらっている会社です。そういう、人様からすれば、うらやましがられるような境遇にいながら、私は、会社をやめた方がいいと考えるようになりました。今から思えば、世間知らずの傲慢さが感じられましたが、その当時は、1年で「この会社から学ぶものはない」と考えたりしていて、今から思うと、そういう私がやめるのも必然だったのかなあ、と思ったりもしています。
私はこう考えたんです。「仮にこの会社にずっといて、たとえ社長になったとして、もう、かなりの年になっているはず。年をとって社長になったとして、そんなに喜ぶべきことなのだろうか」と、、。この考え方の是非はともかくとして、そう考える自分がいました。
私自身は、自分の能力を十分高められるか、十分発揮できるか、そういうところに私の生き方、仕事への価値を置いていたので、「もったいない」という言葉を多くの方からいただきながら、その会社を辞めました。これは、まさに若気(わかげ)の至りとでも言うべきもので、やめて、しばらくしてから、一時期大いに後悔したということもあったのですが、今のこの仕事をしている自分を考えると、結局、当時の判断は正解だったのかなと思ったりもしています。少なくとも、この仕事は、能力の高みに上限がなく、きわまるところまで、きわめたいという私の志向にぴったりの仕事であると思います。
で、それは、いいのですが、やめて、会社を出て行くちょっと前に、印象的な2人の方がいらっしゃいました。1人の方は、会社の寮の管理人さんです。私に餞別(せんべつ)といって、お金の入った袋をくださいました。当時、そういうことに対して、どうしたらいいのか知らなかった「あらけずりの」私は、それをいただいたまま、お返しもしないでいました。でも、いつかお返ししようとも思っていたのですが、その方は、年賀状を送ってもあちらから送ってくるということをしてくださいませんでした。
別の方で、現場のとても品のいい、凛とした「おばさん」がいらして、私をとても慕って、というよりもかわいがってくださっていました。私も大好きな方でした。この方も、私がやめるということがわかって、そうしたら、今はもう忘れてしまったのですが、何かを私にくださいました。とてもうれしかったのを覚えています。でも、その方も、私が京都に離れてから、年賀状を一切送ってこられませんでした。
で、今回、このメールで返答してこられなかったお宅と、このお2人の方がダブって見えました。私は、人様とは細くても長くお付き合いをしていきたいと考えている方で、ですから、何かさびしい気がしたのですが、それがその方々の美意識なのかな、と思ったりもしています。
私は、だれも知っている人がいない京都という地を次に生きる場として、選んだため、その方々とは、会いたくてもすぐに会えなかったですし、京都に自分が根付くまでに、もしかしたら、かなりの年数がかかるかもしれないと思っていました。もっとも、これは、京都に来てしばらくして実感したことで、来たばかりのときは、またお会いするとか、しないとかいうことを、考えるということすらしていませんでした。これまた、若気(わかげ)の至りで、、。
また、お会いして、いろいろ話をしたいですが、もうかなわないかもしれませんね。そんなことを、久しぶりにふーっと思いました。
あのお2人は、なぜ、私に年賀状を下さらなかったのだろう?でも、その方々に、暖かさを感じるのはなぜなんだろう?一人さびしくたくましく京都に根付いていこうとした自分にとって、その方々は、不思議なことに、あれ以来、なんのかかわりもないのに、私の心の中では、とても大きな存在感を持っています。
私自身は、お礼を言われたら、必ずお返しをするようにはしていますが、、。ときに誤解を生みかねないような気もしていますので、、。
私は、京都駅に、リュックサックひとつで、はじめて降り立ったのを今でも鮮明に覚えています。まさに根無し草でしたね。ぼんやりと京都でしばらく生活してみようと思っての、大胆な行動なのですが、今思うと、よくまあ、どこからそんな自信がわいてきたのかという感じです。
こんなことを、ふと思いました。今ごろどうしておられるのでしょうか?
2008年5月14日 10:10:26
光市母子殺人事件の判決がこの前でましたね。で、私がこの事件に関して、もっとも興味を持ったのが、被告(つまり、犯人である元少年)のお父さんの彼へのかかわりです。子育てというものに関して、とても考えさせるものがあります。
4月21日付けの朝日新聞によると、このように書いてありました。書かれている通り、そのまま、必要と思われる部分だけ、打ち出してみますね。
「厳しくしつけた。3回言って言うことを聞かないときは殴った」。3月下旬、元少年の父親(57)は記者に語った。
差し戻し審で、元少年は、「幼いころから父親から繰り返し虐待を受けた」と証言した。父親は平手打ちをしたり、げんこつを振り下ろしたりしたと認めたうえで、人に迷惑をかけずにちゃんと働く人間になってほしいとの一心からだったと語った。父親は事件後に勤務先を退職し、公判を一度も傍聴していない。「何を言っても判決は変わらない。罪は消えない。ずっと引きずっていくんだよ。おれも子どもも」
元少年は中学1年生のとき、母親を自殺で失った。一方で、中学時代はソフトテニス部に所属しながら、伝統芸能の人形浄瑠璃の練習にも参加した。当時を知る関係者は「週5回の練習にほとんど欠かさず顔を出していた。笑顔のかわいい少年だった」。
私は、このホームページで、家の豊かさ、貧しさあるいは厳しさ、優しさが非行の原因ではない、子育てのあり方に原因が求められるべき、みたいなことを言ってきましたが、この事例でも、やはり、同じことがいえるように感じています。
上の記事から、お父さんのしつけが完全に空回りしていたということに気づかれることでしょう。
元少年のお母さんが中学生のとき、自殺で亡くなったというのは、不勉強ながら、このとき初めて知りました。死刑判決は、母子を殺された本村さんのお気持ちを察すると仕方ないという気持ちもしますが、思春期の中学生時代に母親を自殺で亡くした元少年もつらい思いをいっぱいしたということは、十分想像できるでしょう。
元少年のお父さんが「厳しくしつけた」という一方で、それを元少年の方は「繰り返し虐待を受けた」と言っているのも、子どもの心に響くかかわりができずにいたお父さんの悲劇を感じます。厳しくしつければ、いい子に育つという幻想を、子育てについての無知から抱いてしまわれていたのでは、と思います。こんなことを断定的に申しあげていいのかと思ったりもしますが、失礼ながら、このお父さんも共犯ではないかと思えたりしてきます。
ただ、このお父さんも、おそらくは、良かれと思ってしているわけですよね。「人に迷惑をかけずにちゃんと働く人間になってほしいとの一心からだった」という言葉がそれを表しているように思います。決して悪い人ではない。で、その悪い人ではない人が、無知なために、子どもを、世間を騒がせるほどの犯罪人に仕立て上げてしまった、といえるかもしれません。無知は怖いことですね。もちろん、このお父さん一人に責任をかぶせることができないとも思っていますが、やはり、親の責任は、とても大きいと思います。なぜなら、多くの場合、子どもは四六時中いやおうなしに親と接しなければならないのですから、、。親の影響の大きさは、だれのものによるものより、当然のことながら、通常は大きいといえるでしょう。
このお父さんの過ちは、子育てに関して無知だったということにあるのではないかと思います。厳しく育てれば、子どもがしっかりと育つということは、必ずしもないのですが、そういうことを信仰のように、かたくなに思っておられる方は多いのではないでしょうか?
でも、厳しく育てること自体は、大きな教育的効果を持つとは思えません。厳しく育ててもいいですが、でも、その思いを子どもがしっかり受け止められているかということがとても重要になると思っています。子どもが親の思いをしっかり受け止められない状態で、親が厳しくしたら、やはり、現象としては、虐待ととらえられるべきものになってしまうと思います。子どもも、性格をゆがめることにもなってしまうと思います。
子どもが思考したり、反省したりする余裕をもてないかかわりは、それが厳しかろうと、優しかろうと、いい教育的効果は得られないと思っています。ポイントをつかない子育ては、いずれ、何らかの形で重くのしかかってくるかもしれません。
私は、よく「できるだけ軽く言って、つまり厳しく言わないで、子どもが行動を改めることができるのでしたら、その方がいいです」とお話しすることがあります。その方が、子どもは行動を定着させ、しっかり行動できるようになる場合が多いです。上にあげた、私の娘などは、私の発言に、それが、ちょっとした発言でも、耳を傾けてきます。ボソッと言ったようなことでも、、。で、多くの場合、しばらく無言であったりします。きっと何かを受け止めているのではないかと勝手に思っています。
子どもは、自分で考え、自分で思考し、自覚的に行動した方が、多くの場合、後々しっかりした行動がとれると思っています。で、そのために、つまり、行動を改めるために、多少のタイムラグがあることも、私たちは知らなければいけないでしょう。皆さんも、あるとき、ふっと思い立って行動を改めたということはおありでしょう。
教育とは、子育てとは、時に、まどろこしいほどに、こちら側のじっくりとしたかかわりが必要になってくるわけです。一見効率的でない、このあり方が、最も効率的であったりします。なぜなら、一度いい方向に変わった子は、多くの場合、こちらが予想していなかったほどの大きな変貌をとげ、それを定着してしまうということがあるからです。これを、私がかかわってのことでしたら、「田口先生の魔法」と言ったりされる人がいて、私も、あるときから、かぎカッコつきの「魔法」という形で好んで使ったりするのですが、、。もちろん、何度も申しあげているように、私のかかわりは、合理的なもので、魔法でもなんでもないのですが、、。
「できるだけ軽く言って、つまり厳しく言わないで、子どもが行動を改めることができるのでしたら、その方がいいです」というのは、覚えておいてくださいね。子供が怒られなれてしまうことの危険性を考えたら、おわかりいただけることかと思います。つい、ガンときつく言ってしまいそうな場面で、この言葉を思い出して、軽く言って子どもが変わってくれるものか、見てみてください。で、じっくり子どもを観察してみてください。子どもの心を推し量ってみてください。そういうゆとりがときに、私たちには必要なのでは、と思ったりするのですが、、。
子どもを叱りたい場面で、逆に抱きしめてあげてみてください。そのとき、もしかしたら、言葉はいらないかもしれません。子どもを「叱りなれて」しまわれている方がおられたら、だまされたと思って、一度これを試してみてください。で、じっと子どもを観察してみてください。
こんなのもできないの、と言いたくなったとき、淡々とチェックしていって、ただ、状況(チェックの結果)を冷静に子どもさんに伝えてみてください。これもだまされたと思って、一度お試しください。何かをえることができるかもしれません。
「利己的な行動は、想像力の欠如を要件とする」と指摘したのは、三木清という哲学者ですが、で、この言葉は、以前詳しく取り上げたことがありますが、ここでも、この言葉は、生きてきますね。もし利己的な行動を誰かが取っているとしたら、それは想像力が足りないから、利己的な行動をとるのですね。無知がそうさせるともいえるでしょう。深いですね。この言葉、私のこのホームページの、以前のどこかで、であったら、そのときも、じっくりお考えになってみてください。この元少年の行動も、おそらくはそのお父さんの行動も想像力の欠如からきているのですね。
以前書いたことを、繰り返すようですが、深い知識、思考が深い行動につながります。
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