家庭教師田口の視点(21ページ目)

2006年7月24日 9:07:53
 さて、話題をすこし変えましょう。
 「かわいそうに」という言葉。私がかかわってきて、やる気のなかった子達のお父さんお母さん方が時々言われるせりふです。たとえば、「自分達が忙しくて、いつもこの子の相手ができていなかったので、かわいそうだから、その償(つぐな)いの意味もあって○○を買ってあげました」とか、「せめての償いに○○してあげました」とか。あるいは「自分は幼いころ、あまり買ってもらえないことがあったので、この子には、、」とか。幼少時からそういうかかわり方をされてきたお父さんお母さん方は、やる気のない、エネルギーのない子のお父さんお母さん方に多かったように思います。そう思う、つまり、子供を、ときにかわいそうに、とか、いとおしいとか思う気持は、私にもあります。でも、一方で、そういう気持ちを冷静に、客観的にとらえるということも必要な気がしています。
 今回は、これについて考察していきましょう。つまり、「かわいそうに」と思って子育てをすることの意味について、、。
 まず、私達がここでふまえなくてはいけないことは、「かわいそうに」とお母さんが思ってられるほど、本人達は自分たちのことをかわいそうだなどとは思っていないという事実です。特に幼少のときは、本人たちは、自分達をかわいそうだと思っていない、そう思うという感覚さえない、というのが、事実であるように思います。幼い子というのは、与えられた現実を、そういうものとして、そのまま、ありのままに受け入れてしまう、という傾向が強いです。それは、他に比べるものを持つことがあまりない、つまり知識のきわめて限られた子供としては、ある意味で当然のことで、だから怖くもあり、だから子供達は、どんな状況でも、失望せず、たくましく育ちうるわけでもありますが、、。
 よく、内戦状態にあるアフリカなどで軍隊に無理やり組み入れられてしまう少年兵(人道的に問題ですね)の話を見たり、聞いたり、読んだりしますが、その子たちは、大人たちよりも、はるかに洗脳されやすいそうです。これも、あるがままに現実を、言われたことを受け入れてしまうという子供の性質からすると、当然でしょう。これは、子供達のこの性質をを利用した、いわば「負の側面」ですね。これは怖いことは怖いですけど、そんな悲惨な戦争にかり出されても、失望することがないという意味では、たくましくもあります。現実の前に失望して自殺するなんてことは、幼い子には考えにくいことですね。

2006年8月3日 15:34:12
 もっとも、以前私が触れた、お母さんの矛盾した言葉に、「死にたい」と思った子の話からすると、例外的に、幼少のときから、自殺願望を持ってしまう子もいるのでしょう。しかし、私が知る限りでは、年齢が低いほど、そういう感覚からは縁遠いような気がしています。

  私達が、本当にかわいそうだと思う子達、世界にはいっぱいいますね。ですが、その子たちの大半も、自分達がかわいそうだとは思っていないのではないかと思うほど、たくましいです。
 本当だろうか、と思われますか?
 では、皆さんが幼少のときを思い起こしてください。皆さんは、もしかしたら、世間の一般的感覚では、「かわいそうな」状況と思われるような状況におかれたことがあったかもしれませんね。でも、そのとき、自分を、格別みじめだと思われましたか?小さいときどうでしたか?みじめだと思われなかったという方のほうが多かったのではないでしょうか?いやだなあ、と思うことはあっても、それをそのままうけいれてしまった、という感じではないでしょうか?このことも、私達はきちんと理解しなくてはいけないと思います。
 先日、かわいそうな殺され方をした畠山彩香ちゃんは、つらい思いを何度もして、それでも、けなげで明るかったですね。どんなにつらい思いをしても、お母さんが好きだったらしいです。子供達は、幼少のときは特に、自分の状況を、みじめだとか、かわいそうだとか、つよく思っていないのではないかと思います。少なくとも、親がかわいそうだ、と思うのと、本人達の心持ちには、かなり隔たりがあるような気がしています。
 ときに、「かわいそうだ」というのは、親の側の勝手な思い込みだったりします。この親たちの、「勝手な思い込みによる、勝手な行動」が子供達の行動をゆがめ、ときにエネルギーのない、やる気のない子を作り出してしまっているのではないかと、、。
 行動に、親のフィルター(偏見)がかかっているため、一種の、ポイントをつかない、過保護を作り出してしまったりするのですね。
 「親がなくても、子は育つ」というのを「親があっても子は育つ」と皮肉る方もいますが、極端ではありますが、一面の真理をついている、ともいえそうな気がしています。

2006年8月13日 13:47:25
 あるがままに受け入れるということは、反面、こちらが「甘やかし」てしまっても、それを、あるがままに受け入れる、ということをも意味しています。特別がんばらなくても、生きていける、ほしいといえば、買ってもらえる、そういうことを、体に染み付くほど、感じさせ続けてしまうと、それをあるがままに受け入れさせてしまうと、子供は、その安楽な世界が未来永劫(えいごう)に続くと勘違いしてしまいます。きわめてわがままな心のあり方なんですけど、子供には、そんな意識はありません。「ありのままにうけいれてしまう」わけです。世間から、わがままと取れるようなことが、その子には、わがままではないわけです。で、その自分を否定されたとき、いつか、何らかの形で、否定されるわけですけど、そのとき、自分を反省する前に、相手に攻撃的になるのです。我慢することを教えられていないから、攻撃的であることしか、選択できないのでしょう。
 また、ある時期に、受験とか、就職とか、人生の中で、踏ん張らなくてはいけないときに、踏ん張れないわけですね。なぜなら、踏ん張るという経験をしてこなかったから、、。
 先日、逮捕された連続監禁事件の村本容疑者も、ほしいといえば、何でも買ってもらえるという、きわめて「恵まれた」境遇にあった、ときいています。私達は、このことからも、子育ての危険性を強く認識する必要があろうかと思っています。
 過剰に恵まれた環境は、恵まれていない状況よりも、ある意味不幸だということでしょう。

2006年8月27日 2:04:36
 たまたま最近、あるお母さんが「かわいそうだから」を口にされていました。かわいそうだから、スケジュールを変えてほしいと、、。本人の知らないところで、本人に相談する前に、いってこられたのですね。子供さんは、とても頭のいい子なのですが、どこかきちんとしたところがない、あとひとつの丁寧さがない。それはなぜかと思っていたのですが、お母さんが本人のあずかり知らないところで、私に、スケジュールの変更を伝えてくる、このあたりにも、問題があるのかなあ、と思ったりしています。いっておきますが、とてもまじめな、素敵なお母さんですよ。何よりも、このホームページもくまなく読んでられるような方です。その上で、私に問い合わせしてこられた方です。
 私の申していることは、重々承知で、でも、ついそうしてしまうのでしょうか?私自身極力言葉を選んだつもりですが、それでも、きついものになってしまったかもしれません。以下こんな話をしました。
 私は、基本的にスケジュール変更には、素直に応じるほうなのですが、で、そのようにそのお宅にも申していたのですが、夏休みの終わりごろのスケジュールを、「宿題をしなくてはならないから」といって変更を依頼してこられたので、さすがに私もまず、基本的な認識からお尋ねしようと、「基本的に夏休みの終わり間際に宿題をするなどというのは、どこかおかしくありませんか?」という質問をしました。そうしたところ、実は、といわれて、結局のところ、いわば、遊びを理由に、スケジュール変更をしたかったようなのです。正直には話しにくかったのでしょうか?
 私は「本人は知っているのですか?」と聞いたところ、お母さんの一存で、変えようとしてこられたとのこと。そして、その際に、「かわいそうに」という言葉が出てきました。もろもろの事情があって、今年の夏休みは、とても忙しいので、この日くらいは、と言う感じだったでしょうか?3分の2くらいはご両親に原因がある忙しさでしたが、それをおいておくとしても、忙しいから、先回りして、本人との相談もなく、というのが、まず引っかかりました。さらに、本人に工夫の余地がない、ということも気にかかります。つまり、お母さんは、私とのスケジュールを変更することによって、つまり、本人自身のありかたよりも、外部環境を変えることによって、この難局(?)を乗り切ろうとしたわけです。そこに問題があるような気がしました。自分たち自身のあり方よりも、環境(この場合、私のスケジュール)を変えるというのは、もっとも楽で、もっとも安易な方法なのですね。だからこそ、危険なのですけど、、。で、本人にあとで確認したら、スケジュールは今のままでいいといっていました。何とか乗り切ろうという姿勢があります。それは、大事なことで、私は、常々彼には、スケジュールをころころと変えるのはよくないといってきたと思います。彼は、そのことをわかっていたのでしょう。(つづく)

2006年9月3日 2:35:33
 (つづき)親は、それを、あらかじめ守ってあげるのではなく、せっかくの機会だから、スケジュールは、やたらめったら変えるべきでないこと(難しい言葉で言うと、「哲学」)、スケジュールを変えずに、どう対応していったらいいか(知恵)をさずけてあげるべきでしょう。
 私は、「忙しいのはわかります。でも、本人は、遊びたいといったのでしょうか?このように忙しい状況というのは、これから先も多々生じてくるでしょう。そういうときのために、ご両親がすることは、忙しさをうまくしのぐ知恵、あるいは、ある事柄(この場合でしたら、遊び)を我慢する忍耐、そういうものを、子供に伝えていくことではないでしょうか?」という話をしました。
 お母さんはとてもまじめな方で、私の申していることを真摯(しんし)に受け止めてくださいましたが、私は、その際、「お母さんは、本人をかわいそうだとおっしゃいましたが、ぜんぜんかわいそうではありません。むしろ、スケジュールをお母さんが本人の知らないところで、変えようとし、知恵や我慢を教えないほうがかわいそうではないですか?」というお話をさせていただきました。
 目先の安楽を子供に、本人が望みもしていないのに、与えてあげることは、本人にとって、それ(たとえば、勉強よりも遊びを優先するとか)を当たり前と無意識のうちに思わせてしまうような危険性を感じます。スケジュールを親が先回りして決めすぎるのも禁物です。スケジュール感覚は、日々の生活の中で教えていくものです。親がかわりに、スケジュールを決めていったら、いつまでたっても身につかないでしょう。スケジュールを管理するのは、できるだけ子供がすべきで、周りの人間はそれをどうしていくか、その仕方を、ゆっくり教えていくべきでしょう。自分が決めるほうが早いから、とせっかちに何でも親がやってしまって、あとで、いざ自分で、スケジュールを管理していこうと子供がしたとき、慣れていないものですから、なかなか身につかず、結局親御さん自身が、「スケジュール感覚のない子」と烙印(らくいん)をおさざるをえなくなってしまったりします。これは親御さんがそういう子にしてしまったという側面も否定できないでしょう。
 スケジュールを自分で管理させるようにしたら、たまに、失敗して困ったりすることがあるかもしれませんが、でも、それも、勉強です。皆さんだって、そのようにしてスケジュールその他を身につけてこられたはずです。それを目先うまくやろうとして、親ががんばってしまうと、本人の将来によくないことになるかも知れないということがあるという認識は持つべきでしょう。

2006年9月10日 0:42:40
 なお、上の文、私がしょっちゅうきついことを申し上げていると思われないでくださいね。このお宅にこんなことを申したのも初めてですし、私は、これはどうしても、というときしか、申し上げません。私は、基本的にやさしい人間だと思いますよ。むしろ、辛抱強く、暖かく見守ることのほうが多いです。でも、残念ですが、この仕事は、ただやさしいだけではつとまらない気がしています。自分にも厳しくなくてはいけませんが、時に人様にも、できるだけわかりやすく、かといって、相手のお気持ちを傷つけるのを最小限にしようと努めて、お話しなければならないときもあるように思います。
 時に誤解されかねないこともありますが、あとでわかっていただき、その時に感謝していただけたら、いいかなと思いつつ、、。

 さて、今回は、私の知恵の話をしましょう。具体例を取り上げつつ、、。授業において、私達はいろいろなところで、知恵を働かさねばなりません。家庭教師はその「集合体」みたいなものだと思っています。がみがみ言うだけの家庭教師は、その無能さを、自ら露呈しているだけだと思います。この子はどうして聞いてくれないんだろう、という前に、自分の知恵のなさを反省すべきときもあるかと思います。怒りっぽければ怒りっぽいほど、知恵がない、といえると思っていいかと思います。もとより、怒らなければならない子もいます。でも、私がかかわってきて、私がそういうように思う子は少ないです。
 しかも怒っているときも、常に冷静さを保ち、感情的にならないよう、気をつけるべきでしょう。怒って怒って、それでも子供さんが思うようにならず、ストレスがたまるようでしたら、まだ、冷静さがないといえるでしょう。
 もしあなたが親御さんでしたら、怒る前に冷静に見つめなおすことが必要です。どうして怒らなければならないような子に育ってしまったのか、さらには、怒らずに解決する方法はないのか。怒って効果あるのか?そもそも怒るべきことなのか?など、、。そのなかに解決策のヒントが隠れていたりするのではないかと思います。また、そのようにご自身を振り返るヒントは、このホームページに、ふんだんにあるはずです。

 今回は知恵のお話をしようと思ったのですね。脱線しそうになりましたが、これ(脱線)も楽しみながら、お読みください。脱線といっても決して無駄な話をしているわけではないつもりですので、、。
 さて、知恵のお話。その子特有の悪い癖というのがあります。いつも同じようなところで、計算間違いをするとか、、。それを直すのに、あなたでしたら、どのようにしていきますか?私は、ただ気をつけろ、みたいなことを言うのを好みません。そのあり方は、今まで、私が子育てにおいても、具体例をいくつか示してきたかと思います。教えるということに関しても、私は同様のスタンスを持って臨んでいます。
 わが子も含め、私は、ほとんど怒ったことがありません。怒ったりする前に、伝えるべきことがあるように思うからです。子供とのかかわりには、いつ言うかがとても大事です。でも、それより、どのように言うかがもっと大事な気がしています。私達は、どんな小さな子でも、どんな大きな子でも、相手がなるほど、と思うような話をしていく必要があると思います。
 
 そういうわけで、ゼロの話をいたしましょう。数字の0のことです。さらに申し上げると、0による計算間違いの話です。これ、0をよく6に見えるようにかいてしまって、あとで、自分で、それを本当に6と勘違いしてしまって、まちがえたまま計算して、結局、答えもまちがえる子がいるのですが、皆さんもそんなつまらない計算間違いをしたことありませんでしょうか?あるいは子供達がそんな失敗をしているのを見たことありませんでしょうか?で、その失敗を見て、あなたは、どんなことを言われましたか?今度は気をつけてね、ですか?計算ミスが多すぎと怒りますか?計算間違いは、一つ一つ具体的にみていくと、かなり単純なミスが多いことに気づきます。その一つ一つに、固有の対処法があるというべきでしょう。で、今回は数字の0での、失敗への対処法を具体的に取り上げましょう。さて、あなたでしたら、どう知恵をさずけますか?

2006年10月1日 0:40:01
 ずいぶん、遅い書き込みになってしまってすいません。私なりの、今のところの、最善と思われる対処法を記してみますね。
 結論から言うと、ゼロを書き始める位置を変えるようにいうんです。6のように書いてしまう子の多くが、ゼロを時計の文字盤に重ね合わせて考えてみていただけると理解しやすいかと思うんですが、右上、すなわち、2時のあたりから、反時計回りに書いて行くようです。というか、私も意識をしないとこう書きますし、こう書くのが普通だと思うんですけど、これがどうもゼロを6と取り違える原因みたいなんです。
 たまに、6時の方向、つまり真下からゼロを書き始める子もいたりします。そういう子は6とまちがえかねないようなゼロを書くことはないんですよね。下がきちんと結ばれない場合、今度は9と取り違えたりしないかって、心配する人もいるかと思いますが、さすがに9と取り違える人はいないようです。ですから、そういう子、つまり、真下からゼロを書き始める子は、はゼロの認識間違いを起こさないんです。
 真下から書くなんて、最初は変なゼロ書くな、なんて思っていたんですけど、彼らは知らないうちに、6となってしまう可能性を排除していたわけですね。たまに、2本足のたこみたいなゼロとか、下のつぶれた卵みたいなゼロを書くことになったりしまいますが、それでも、6と勘違いしてしまうよりましでしょう。
 もっとも、私は下から書け、ということはありません。左上、すなわち、9時とか10時くらいのところから書いてもいいし、上の子のように、真下から書いてもいい、という、選択肢に余裕を持たせる感じのほうが多いかもしれません。個人的には、左、あるいは、左上から書くほうが見栄えがいいので、そちらを薦(すす)めることのほうが多いかもしれませんが、、。
 簡単でしょ、この防止法。慣れるまでに子供によって、時間がかかる子もいるかもしれませんが、、。意識を本人がし続ける必要があるし、改善の早さには個人差があるかもしれません。ただ、結構早く改善したりする子多いです。ケアレスミスは防ぎたいですからね。本人だって、、。
 このように、工夫というものはできるだけ大がかりではないものがいいと思います。ほんのちょっとかえたら、効果がでたというのが一番いいです。ちょっと変えて劇的な効果が得られるのが一番いいかと思っています。これこそ、私達の知恵の見せ所ですよね。
 知恵や哲学は始終教えること、育てることに関心を持つところから、生じると思います。思い入れがなければ、いい知恵も哲学も生まれてこないでしょう。

2006年10月8日 20:03:03
 また、仮に2時の位置くらいから書き始めている子でも、ゼロを6に絶対まちがえないという子もいっぱいいるので、そういう子には、当たり前ですが、私は一切この工夫を話しません。その子その子によって、問題点は変わってくるわけで、同じように見えるケアレスミスでも、個々人によって、違う対処法があるということですね。ちょっとの差が大きな差。まさに知恵の使いどころですね。
 少なくとも、ただ、漠然ときちんとしろ、とか、ミスが多い、とかいうのは、本人にいらぬプレッシャーをかけるだけであって、かえって、結果がよくないことになったりすると思います。結局、私達は、勉強にまつわるいろいろなことが、多くの場合、知恵によって、解決しうるということを教えていくべきであって、具体的に知恵を使う方法があるということを、知恵を使えるのだということを、知らせていくべきでしょう。子供が、知恵を使うことの必要性、可能性を知ることは、つまり、知恵をできるだけ使うべきなんだ、使えるんだ、と思うことは、勉強だけでなく、人生のさまざまな場面で、つまり、一生涯にわたって、大事なことであると思います。
 勉強には、ある程度(いや、もしかしたら、とても)、辛抱とか、根性とかは必要だと思います。ただし、単なる根性とか、努力とか、忍耐というのは、少なくとも、今の時代には、そぐわないのではないかとも思います。
 過保護によって、根性のない子に育てると、本人もご両親もあとで苦労します。でも、単に、根性だけの子というのも、そんなにほめられたことではないと思います。頑張れ、頑張れ、といわれて、後ろ向きに走っているのでは、と思われるような子がいます。実際に、走る時、歩く時にそういう子はいませんが、勉強においては、十分ありうることだと思います。
 以前、半年余り前、数学が大の苦手で、方程式で解かずに、小学校の時に習ったやり方で解こうとして解けなかったという子を教え始めたという話をしましたが、覚えてられるでしょうか?先日、数学で90点を余裕で超え、学年で2番だったそうです。塾を早々にやめてしまった子です。塾をやめたときの彼は、私が想像するに、空回りし続けた勉強から、無力感とともに、身を引いたという感じだったと思います。私とて、もう少し遅く教えていたら、彼を救うのに苦労し、救うことができたとしても、これほどの劇的変化を起こすことはできなかったことでしょう。彼などを見ると、頭がいいということは、どういうことなのかと考えさせられます。彼が塾や学校にそぐわなかったところは、おそらく、異常なくらい非常にゆっくりじっくり考えることです。で、どういうわけか、きわめて定着がいいんですが、「要領よく」勉強してみせる子たちがいっぱいいる中で、彼は、それとは対極をなすタイプといえるでしょう。要領よく見える子を世間の大人たちは、つい評価してしまいがちですね。でも、本当は、どちらが要領がいいかわかりませんね。
 人間にとって、根性とかねばっこさ見たいな部分は、絶対必要だと思います。でも、頭を使わない、合理性を伴わない「単なる根性」みたなものは、長い目で見て好ましいようには思えません。ですから、私は、ただひたすらがんばれというのを好みません。
 サッカー日本代表のオシム監督は「一流のサッカー選手は、足が痛いとかは言わない。頭が痛い、というんです」といっておられましたが、その意味は、サッカーは頭でするものだ、一流選手ほど、頭が痛くなるほど頭をめぐらせるということのようです。体力勝負に見えるサッカーでもそうなのですから、本来的に頭を使う勉強においては、なおさら、そうであるべきでしょう。
 




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